自分がどもりながら話すときに一番気にしていたのは、周囲の人の反応でした。
その反応の仕方は人それぞれでしたが、私にとっては、いやな記憶ばかりが残っています。
軽蔑するような、冷ややかな目で見る人、見てはならないものを見たかのように、目をそらせる人、友達と目配せして
「何や、あのしゃべり方」と冷笑する人、子どものころはそれらに加えて、しゃべり方をまねしてはやしたてたり、
笑ったりされていました。
名前を尋ねられて「こ・・・こ・・・こもりです」と話す私に「お前は小森か、どもりか、どっちや?」と言ったクラスメートがいました。
体育の時間で「いち」、「に」、「さん」、「し」と順番に来て、私のところで「ご」と言えずに何秒間か静寂ののち、
やっとの思いで「ご」と言うたびに、「くすくす・・・」と嘲笑が聞こえてきました。
どもることで恥ずかしい思いをした経験は数限りなくあり、何年経っても忘れることはできません。
私の親は吃音ではありません。
だから、私がどもると「何でゆっくりしゃべらないんだ。
あわてなくていいのに・・・」と、情けないような目で見たり、怒ったりしていました。
そのような毎日でしたので、成長するにつれて、「どもることは悪いことであり、恥ずべきことなのだ」という思いが
強くなっていきました。
思春期以降は、必要最低限の会話しかしない、いわゆる「ネクラなやつ」になりました。
言友会を知ったのは、約10年前のことです。
初めて北九州言友会の例会に参加して、同じように吃音で悩む人が多くいることを知るとともに、何年も前からの友人のように暖かく私を受け入れてくれた先輩会員のやさしさに触れて、ようやく自分の居場所を見つけた思いがしました。
それまで吃音を隠し、治さないと何もできないと、劣等感にさいなまれていた私ですが、言友会の活動を続ける中で、吃音に負けないで前向きに生きる多くの人を知って、何でも吃音のせいにしていた自分の過ちに気づいたのです。
吃音は会話の大きなハンディです。
しかし、治せなくても悲観的になる必要はなのです。
どもらないでうまく話すことよりも、自分が伝えたい思いが、そのまま相手に伝えられることのほうが重要だと
今は思うようになりました。
何かに夢中になって打ち込んでいるとき、吃音のことなど忘れています。
そういう状況を常に保つことができれば、吃音にとらわれなくなると思います。
吃音を自分の個性あるいは癖の一つぐらいに考えられるようになれば、その人は吃音を克服したといえます。
そういう心境になれる日が来るまで、前向きに生きて行きましょう。